【ネタバレ注意】「響け!ユーフォニアム ホントの話」の感想など その3

ごきげんよう
4月5日に刊行された小説版短編集新刊
響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部のホントの話」
の感想ブログ。
今回はいよいよ本丸であるアンコン編についての感想を綴っていこうと思います。

遅筆過ぎて8月下旬の投稿になってしまいました。大変申し訳ない・・・。














以下ネタバレ注意です!




















  • 想像したより随分と爽やかな仕上がりになったアンコン編
アンコンは、吹奏楽部出身者の中でも辛い思い出がある人の割合が結構多くて(自分もそう)、そんなアンコンをユーフォシリーズで読者の胃袋をキリキリさせてきた武田先生が描くと、一体どんなドギツい話になるのかとビクビクしていたんですが、想像よりもずっと後味良く爽やかな仕上がりになったなというのが素直な感想です。
とはいえ、やっぱりアンコン特有のピリピリムードも麗奈さんによって華麗に織り込まれたり(笑)、オジサン吹奏楽オタクでも思わず反応してしまう曲目が登場したりと、アンコンの雰囲気はちゃんと表現されていたように思います。では、それぞれ具体的な感想を書いていこうと思います。





  • 順菜ちゃんと森本さんのサブキャラ昇格は全くの予想外
そもそも、「主要キャラの金管勢は金8か金5だろう」と勝手に思っていたので、特に順菜ちゃんのサブキャラ昇格はかなり驚きました。とても感じの良いキャラになってましたね。でも、アニメオリジナルキャラのうち、久美子と同学年のパーカスで唯一未登場となった堺ちゃんの気持ちを思うと・・・。3年生編で奇跡のサブキャラ昇格を期待しましょう。
森本さんに関しては、金管でアンサンブルをやるならホルンで誰か入る事はほぼ間違いないのですが、定演編のように「その他の部員」くらいにしか登場しないと思っていました。しかも、ホルンのアニメオリジナルキャラだと、ララの方が知名度がある中で森本さんのサブキャラ昇格はかなり意外でした。ララはアニメ版だと「モナカ」だったというのもあるかもしれないですね。森本さんは名前は出てくるものの、物語そのものにはあまり絡みませんでしたね。3年生編での活躍はあるでしょうか。







  • 宮城とはだいぶ勝手が違う京都のアンコン
アンコン編は、宮城の母校と京都の北宇治ではアンコンへの取り組み方がまるで違うなと感じる事が多かったです。
大きな所でいえば、自分の出身地である宮城は、府大会からの京都と違いアンコンでも地区大会があり、しかも区分がかなり細分化されているので各団体から複数の編成が出場可能になっていました(地区によっては各団体から出せる編成に上限がある所もあったようです)。
なので、母校では校内予選というものがありませんでした。自分の学校では一応「アンコン前に発表会をやって、余りにひどい演奏だった編成は出場を取り下げる」というルールが2年生の時に出来たものの、結局は全編成が出場しました。
さらに、母校は北宇治に比べて部員数も多くなかったので編成作業もかなり異なっていました。母校ではまずパーカス・フルート・クラ・サックス・金管で「基幹の編成」を組みます。サックスなら4か6が定石、クラも曲目によっては弦バスを入れて管弦編成にしたり、金管は8を基本にボーン2ユーフォ1にするかボーン3にするか、あるいは金管5にするか・・・等々。で、そこから漏れた人達(技術面で劣る、あるいはダブルリードや弦バスなど編成に入れにくい楽器)で寄せ集め編成をいくつか作ります。そうやって全員アンコンに出場させていました。なので、北宇治とは違う意味で編成作業でゴタゴタが起こりやすく、後述の練習の進め方もあって人間関係が揉めやすい時期でした。母校は部員数も多くない故にコンクールでオーディションも無く、ソロ争い等も起きなかったので、コンクールよりアンコンの方が圧倒的に揉め事が多かったです。
このように、地区大会の有無・部員数・大会の成績・顧問の先生の意向など様々な要因によって学校ごとに取り組み方が違うのがアンコンの特徴で、それぞれが母校と正反対な北宇治のアンコンへの取り組み方はとても新鮮でした。





  • 知らない曲のオンパレードの中に、馴染み深い曲名がチラホラと
アンサンブルは好きなんですが、曲名を聞いてもピンと来ない曲が多かったです。最近の曲が多いのか、単純に自分の知識不足か・・・。
ただ、馴染み深い曲もいくつか出てきました。『文明開化の鐘』や『三つの小品』などはよく耳にする曲名で、特に『文明開化の鐘』は自分も好きな曲です。
そんな中で何より自分の心にズバッと来たのは『高貴なる葡萄酒を讃えて』です。自分が現役時代からアンコンの超定番曲で、"ユーフォがミュートを使用"・"コルクのポン"で有名です(そう思ってるの自分だけ?)。自分この曲が大好きでくり返し聴いています。吹いた事はないんですが難易度もかなり高いようです。でも音の動きが華やかで、陽気な曲調と相まって聴いてて飽きない楽しい曲です。
そのほかの曲で言うと、不勉強ゆえに知らない曲だったんですが、そのうちの一つであるクラ4の『革命家』という曲が、自分の中でかなり刺さりました。「20年先をいった」と称される独自の感性で前衛的なタンゴ曲を多く作曲した、A・ピアソラというバンドネオン奏者兼作曲家の作品が原曲だそうです。クラアンサンブルに編曲されたのは比較的最近のようですが、この曲がまー素晴らしい!原曲の情熱的で複雑な音の動きを損なわず、クラリネットの音色と見事に調和していて、難易度は高そうでしたがとても良いアンサンブル曲でした。また、この曲を通してピアソラ本人の作品にも興味が出ました。こうして、1つの曲を切っ掛けに色んな曲に興味が広がっていくのも、音楽の楽しさの一つです。








  • コンクールで評価をされる演奏と一般受けする演奏の乖離について思う事
滝先生は、校内オーディションの投票方法を久美子たちに相談する際に
「演奏を評価するというのは、本当に難しいことです。主観や好みだってもちろんあるでしょう。ですが、それを排除して客観的に演奏を見極めることの難しさを、皆さんに体感してもらいたいんです。…好みと良し悪しを混同しないというのは、大人でも難しいことですけどね」
と言っています。また、久美子は
「オーディションで勝つ演奏と一般受けする演奏って、やっぱり違うじゃないですか」
と言います。秀一も
「娯楽用の演奏とコンテスト用の演奏が別物なんやっていう体験は大事な気がする」
と言っています。麗奈も"コンクールで評価される演奏と一般的に受ける演奏の差"という点に関しては異論を挟みません。
この"コンクールで評価される演奏と一般聴衆に支持される演奏の乖離"について、物語上では存在する事が大前提として話が進みます。実際の吹奏楽界隈にいらっしゃる方々は、この点をどのように考えてるのでしょうか。
これは個人的な音楽観としてなんですが、"コンクールで評価される演奏と一般聴衆に支持される演奏の乖離"は、(実情として乖離があるにしても)本来は無い方がより理想に近いんじゃないかと思うんです。
何故かと言うと、「誰かに審査されて演奏の出来を競い合う事」より「聴衆に自分の音楽を聴いてもらう事」の方が、より音楽の本質に近いんじゃないかと思うからです。一般聴衆を魅了する音楽がコンクールで評価されないという事が、果たして在ってよいものなのか。そもそも音楽は競技ではないので…。
そして、(あくまで素人考えではありますが)音楽に客観的な良し悪しが存在するとはどうしても思えないのです。特に芸術に関しては百人百様の価値観があって、その価値観に基づいて音楽を聴くので、重視する点も違ってくるはずです。なので、音楽を完全に客観的に良し悪しを評価する事は出来ないのではないでしょうか。そういう意味においては審査員も観客の一部でしかないと思うのです。
音楽は、やはり自分たちの音楽を誰かに伝える事が主な目的のはずなので、多くの観客を魅了する音楽と、コンクールで評価される音楽に乖離があるのは、音楽の趣旨としてどうなのでしょうか。
以上のような事があるので、音楽の専門家である滝先生のこの発言を読んだ時には、個人的には少しモヤモヤしました。





  • 推進役の秀一、ブレインの麗奈、調整役の久美子
優子・夏紀ペアとは違った意味で、この3人のバランスが絶妙だなと思いました。秀一と麗奈の意見が割れた時に、その折衷案を探りながら滝先生に提案する久美子。その案の懸念する点を滝先生に示され足踏みする久美子に、秀一が「いいんじゃないですか?」の一言で久美子の案を推します。それを聞いた麗奈は、元々自分が推したものではない案のメリットを直ぐに把握し、それをロジカルに纏めます。
この数ページで3人の役割分担がハッキリ分かります。麗奈は秀一に睨みを利かせていますが、こと部活運営に関しては秀一もちゃんと発言が出来ているので、恐らく部活運営の点では、この3人は揉めないかなと思います。火種は、もう少し音楽性の所にありそうですが・・・。









  • 麗奈が葉月とつばめを詰めるシーンは、上手な部員が陥りがちな状態をリアルに表現している
麗奈は、間違いなく部内でトップクラスの演奏技量を持っていて、頭の回転も早いんですが、エース部員だからこそ陥ってしまう状態になってるなと思います。
葉月とつばめは2年生でもコンクールではB編成の出場なので、技量的には他の6人に比べて劣るという事になります(こういう言い方は好きではないですが)。特にアンサンブルは人数が少ない分、個人の粗が見えやすくなります。出来る側の人間にとって、出来ない人間の技量の低さ・上達スピードの遅さはフラストレーションが溜まる原因になります。特に吹奏楽は、シリーズ作中でも何度か言われている事ですが、"出来ない側"の底上げが演奏の完成度を高めることに直結します。
もう一つ、麗奈は「奏者の演奏技量は、自身の努力量が純粋に反映される」という考えを持っています。これは、最初の短編集である『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部のヒミツの話』に収録されている"お兄さんとお父さん"という話から繋がっています。小3の麗奈は
二人の演奏を聴き比べて先生が麗奈を選ぶのは当たり前の話で、だからこそ彼女がこちらに文句を言うことに困惑した。麗奈だってピアノのコンクールでほかの子に負けることはあるけれど、悔しいと思ってもその感情を相手へとぶつけたことは一度もなかった。だって、自分が負けたのは自身の努力が足りなかったせいだから。
と言います。書いてて思ったんですが、"音楽は競技である""コンクールの結果に不平を感じない""演奏技量は自身の努力が純粋に反映される"という麗奈の音楽観がこの1文に集約されています。そして、麗奈の音楽観は小3の時から変わっていないという事でもあります。本来麗奈は、この由佳ちゃんとの出来事によって「努力量が自身の演奏技量に充分に反映され、コンクールの結果に不平を感じないのは、自分の音楽の才能が元々高い事と、指導者や経済力も含め音楽をする環境が完璧に近い形で整っているからで、本来演奏技量の高さ・上達スピードは本人の努力量のみでは決まらない」という事を学ぶはずだったんですが、帰宅後の滝先生との出会いと、滅多に無い父親とセッションできる機会を得た喜びによって消し飛んでしまったので、この事を学ぶ事なく高校2年生になったという訳です。
さらに、久美子の入っている編成で練習の主導権を握るのは麗奈な訳ですが、久美子は麗奈の練習の音を聴いて以下のように述べます。
いくら難度が高かろうが、麗奈は高音を外すことを恐れない。彼女の頭の中にあるのは、音楽的に『正しい』音を再現することだけだ。
『正しい』に鍵括弧がついているのがミソです。コンクールでは滝先生の思い描く音楽を部員が如何に再現するかという作業をしていたのと似ていて、麗奈の思い描く『正しい』音楽に向かって6人で曲を仕上げていき、『正しい』音楽とのズレを麗奈が判定するという練習になっています。残念ながら「6人が共同で音楽を作り上げる」ようにはなっていません。
これらの要因によって、麗奈はつばめと葉月を詰めてしまう訳です。麗奈のようになってしまう部員は、実際の吹奏楽部員でもたまに居るようです。
つばめと葉月の立場になった事があるので(なのでアンコンはトラウマ)、特につばめの心境を思うと居た堪れなくなります。麗奈は、演奏で至らない点がある原因を「努力不足」としか判定出来ないので、改善方法を提示出来ていません。なのでつばめと葉月は、どうすれば良くなるのかを掴めないので
何せ彼女はここ二時間、気が滅入るほどの教育的指導を麗奈から受けている
という事態に陥ってしまいます。麗奈は、いつまで経っても改善しない2人の演奏に不満を募らせ、2人は「具体的にどうすればいいのか」を掴めないまま繰り返し詰められる。おおよそ"いい練習"とは言い難いです。
アンコンの場合、顧問の先生が直接指導する時間が少ない分、生徒同士で指導しながら練習を進める時間が増えるので、こういう状況は特に起こりやすいです。






  • つばめの状況がなぜ改善したのかを、久美子は麗奈に伝えたか
つばめの苦しい状況を打破した久美子の洞察力はさすがだなと思います。こういう状況になった時に、久美子のように具体的にどうしたらいいのかに気付き、進言してくれる人がいるというのは、とても貴重な事です。そして、麗奈の足りない部分を久美子が補うという理想的な展開になっているのが、全体として爽やかな読後感になっている理由の1つでもあります。
1つ気になるのは、つばめの演奏がなぜ劇的に改善したのかを、久美子が麗奈に伝える描写が無い事です。久美子はなぜ伝えなかったのか釈然としません。単純に伝えている場面が描かれていないだけかもしれないのですが、その後の展開を読む限りは、その事が麗奈に伝わっているとは思えません。個人的に、つばめの演奏が改善した理由と状況を麗奈が知った時に、彼女の中でどういう心理的な変化が起こるのかがとても興味がありますし、麗奈にとってもこの事に気付くかどうかは非常に重要な事なんじゃないかと思うのですが・・・。










  • つばめの言動は、オーディション制のデメリットを浮き彫りにしている
実はアンコン編の中で、つばめの言動によってコンクールのメンバーをオーディションで決める事によるデメリットが見えた場面が2つあります。
1つ目は、久美子の指摘によってつばめの演奏が劇的に改善したシーン。順菜ちゃんが次のように話します。
「はしもっちゃんもいろいろと指導してくれてはってんけど、つばめってBやったからAの子らに比べると指導時間が短くて。しかも、普通に指導者ありでやってる分には問題なかったから、そもそもできへんことに気づかれんかったのよ。欠点に気づかへん状態というか」
これに関しては、オーディション制のデメリットと言えるかは微妙ですが・・・。ただ、オーディションの結果B編成に回った生徒は、滝先生と松本先生によって「技量が一定水準に満たない」と判断された部員な訳で、その部員が「技量が一定水準に達している」A編成の部員よりもプロから指導してもらえる時間が短くなってしまうというのは、特にB編成の1・2年生にとって不幸な事だと思うので、今後改善しなければいけない点なんじゃないかと思います。もしA編成に、2年生であるつばめがAから外れた分の枠に1年生が入っていたとして、仮にオーディション制を採用せず上級生から優先的にA編成に登用される仕組みであれば、つばめはAに加われたかもしれません。その場合橋本先生から指導を受けられる時間も多くなり、結果つばめの演奏の改善が早まった可能性もあります。
いずれにせよ橋本先生から指導を受けられる時間がもっと確保されていたならば、もっと早くにつばめの欠点とその改善方法が発見されていたかもしれないと思うのです。もしかしたら、つばめのようにB編成に回ったが故に、演奏技量が伸び悩んでしまっている部員が他にも居るかもしれません。
もう一つは、校内予選前日に発せられたつばめの一言に表れています。つばめは久美子に「Aでコンクールに出るのは怖いか」と問います。しばらく考えたのちに言います。
「私、下手やし。いままでずっと自分がBなんは当たり前やと思ってたんやけど、でも…でも、順菜ちゃんみたいに、自分もAで出たいって思ってええんかな」
滝先生が来る前の北宇治は、上級生を優先してA編成に入れていました。結果、上級生は「努力しなくてもAで出れるから」といって真面目に練習をせず、部活全体に怠惰な空気が蔓延しました。滝先生がオーディション制を導入し、その空気を一掃しました。そんな、部にとってプラスの効果をもたらしたオーディション制のデメリットを、つばめは顕在化させたと言えます。
もしも久美子がつばめの改善点に気付かなかったら、つばめは潜在能力を発揮する事なく、橋本先生から指導を受ける時間も相対的に少なく、自己評価も低いまま3年間Aでコンクールに出られずに終わってしまう可能性があったという事です。その場合、つばめは高校を卒業する時に、音楽に対してどういう感情を抱くでしょうか。それは、音楽に深く取り組むことが出来たと言えるでしょうか。「自分は下手だからAで出たいなんておこがましい事だ」なんて思ってしまっていた部員が少なくともここの1人いるというだけで、充分オーディション制のデメリットと言えると思います。
こういう内容を、わざとらしくならずに物語に織り込む事が出来るというのが、武田先生の力量だと思います。




  • アンコン編の中にある、今後の展開に対する超希望的観測
(何年後になるかは分かりませんが)続編があるのは確実なので、最後に、アンコン編の中にある各場面から「続編ではこうなったらいいな」という希望的観測を書こうと思います。
まず1つめ。後半で奏と久美子が、来年のコンクールについて話す場面があります。
「滝先生も、各部員の実力を把握しやすいでしょうね。きっとこれで、自由曲も決めやすくなったでしょう」
「自由曲って、コンクールの?」
「そうですよ。上手い子が活きる曲を選ばないともったいないですもんね」
来年を見据えて行動する、とはそういうことなのか。
すべての行動が来年のコンクールに続いている。でも、一つひとつの演奏を単なる過程と割り切ってしまうのは、ひどく寂しい。
「純粋にアンサンブルを楽しみにするのって、部長としての自覚が足りないかな」
「むしろそれが正しいんじゃないですか?目の前の演奏に集中するのって、当たり前のことだと思いますけど」
(一部抜粋)
第二楽章後編の感想ブログで「優子部長と久美子は、部の活動すべてがコンクールで良い成績を獲る為の過程と捉えていて、それは音楽への向き合い方としてちょっと違うんじゃないかと思うし、それが関西止まりだった原因かもしれない」という事を書きました。今まで「コンクールで良い賞を獲る為」に吹奏楽をやっていた久美子が、「全ての演奏機会には本来貴賤が無い」という事に気付き始めています。さらに「純粋にアンサンブルを楽しむ」というセリフが久美子から出ました。これが、久美子の中にある「コンクール至上主義」的な考えからの脱却、すなわちコンクールで良い賞を獲る事が"目的"ではないという考えに至る兆しだったら嬉しいです。

もう一つ。同じく上記の場面で、奏が「滝先生も自由曲を決めやすくなっただろう」と言っています。一方、滝先生は、アンコンでの新たな試みとして、自分たちで編成と選曲をするという体験をさせたと言っています。これは、コンクールの選曲やメンバー編成の一部を生徒に委ねる可能性もあるかもしれないと期待しています。
良く考えれば、滝先生は「生徒の自主性を重んじる」という方針を掲げているにも関わらず、少なくともコンクールは、練習計画・選曲・メンバー編成の全てを滝先生が決めてしまっています。アンコンで編成と選曲を部員に任せたのが、次のコンクールで編成と選曲を部員に委ねる布石だったらいいなと思っています。まぁ編成を完全に部員に決めさせるというのは可能性低いですが、選曲くらいは大いにあり得ると思います。「生徒の自主性を重んじる」と言うからには、せめて選曲と練習計画くらいは生徒たちに決めさせる方がいいんじゃないかなと思いますし、そっちの方が部員達はより主体的に音楽に取り組む事が出来るんじゃないでしょうか。第二楽章の感想ブログで「滝先生は、コンクールを「生徒たちに『努力して音楽の完成度を高める楽しさ』『その音楽を観客に聴いてもらう喜び』を伝える」ための手段として活用した」と書きましたが、何回か読み返しているうちに、やっぱり滝先生も、コンクールで良い賞を獲る事が"目的"になってしまってる気がしていました。このアンコンでの試みが、滝先生自身にとっても音楽に対する取り組みの転換点だったりするのでしょうか。

前述のように、久美子たちは滝先生や麗奈などの"リーダー"が示した「正しい音楽」に従って吹奏楽に取り組んできました。2巻の合宿の場面など、それを示唆する描写が初期の頃からいくつもあります。そういえば、アニメ版2期のED曲の歌詞の一部分に
「タクトに導かれてここまで来たよ」
という一節がありましたね。校内予選を通過したクラ4のメンバーは、そこから一歩先に進んで「メンバーが共同で音楽を作り上げる」という事が出来たでしょうか。久美子3年生編では、久美子たちが自立して音楽を作り上げる物語が読めたら嬉しいなと思いますが、武田先生はどうお考えでしょうか・・・。











刊行から5か月近く経って、ようやく感想ブログを書き終えました。リアルが忙しかったとはいえ、本当にどんだけの遅筆なんだ自分・・・。
アンコン編は自分の中で話したい事が本当に多くて、なるべく語弊無く綴るのに苦労しました。とにかく溢れる思いを言葉に込めてぶつけてみました。アンコン編はもちろん、どの作品もとても素晴らしい作品ばかりで、武田先生の作家としての力量を感じるものばかりでした。
アンコン編の感想は、本当は南中カルテットの事も書きたかったんですが、アンコンの事でいっぱいいっぱいで、そこまで頭が回りませんでした・・・。

ここまで、こんなに長引いてしまった感想文を読んで下さった皆さん、本当に本当にありがとうございました!ユーフォシリーズの続編と、武田先生のさらなる活躍を期待しましょう。

それでは。