【ネタバレ注意】【追記あり】「響け!ユーフォニアム 第二楽章 後編」の感想など その2

10/5に刊行された小説版の新刊
響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 後編」
を読んで気付いた事などを書き綴った記事、
その2です。長くなったので分割したうちの後半です。想いが溢れすぎて10日以上かかって、奇しくも全国大会の日の公開となりましたww

※2018年4月4日に、加部先輩の所に少しだけ補足を入れました。











当然ながら、以下ネタバレ注意です!













その2では、
後編の特に関西カラ金が確定した後で、読んでて強く感じる事が多かった
「本来競技ではない吹奏楽において、コンクールが行われる事についての云々」
みたいな側面を軸に書いてみようと思います。

一応言っておきますが、
「コンクールなんて無くしてしまえ」
「北宇治の部員が悔しがるのは間違ってる」
「滝先生や優子部長の方針(ひいては武田先生や作品そのもの)に問題がある」
とか、そういう事では全くないので予めよろしくお願いします。










  • コンクールの是非という、吹奏楽界隈に於いて最大の・永遠の・正解のない命題をド直球で投げ込む武田先生
「競技ではないはずの吹奏楽がコンクールという形で競技になっている事の是非」「『良い音楽』と『コンクールで評価される音楽』の差」などは、吹奏楽界隈ではずーっと昔から議論され続けてきました。
コンクールに関しては、「コンクールで良い賞を取らなければ全くの無意味である」という極端なコンクール至上主義から、「音楽の本質を歪めるだけだから一刻も早く全廃すべきだ」という極端なコンクール否定主義まで、様々な考えがあります。しかも正解・不正解のある話ではないので、吹奏楽部員や指導者のほとんどがこの命題にぶち当たり、それぞれが自分なりの解釈を持ち、所属する団体の中で各人が懸命に摺り合わせながらコンクールに挑んでいます。今までも、これからも。
ユーフォシリーズでは、特に原作1、2巻と、この第二楽章後編において「コンクールとは何ぞや」「いい音楽とは何ぞや」という命題が度々組み込まれています。吹奏楽部に所属する場合避けては通れないこの命題に、真正面からド直球を放り込む武田先生の作風が、吹奏楽経験者から多くの支持を得る要因の1つなのかなと思っています。
初めに自分の意見を述べさせて頂くと、自分は高校から吹奏楽部に入ったのですが、うちの高校が県大会にも進めない弱小校(宮城は県大会の前に地区大会がある)だったり、自分の周りに「コンクール至上主義」に懐疑的な考えの人が多かった影響もあって

  1. そもそも音楽は競技ではないから、コンクールの結果だけを追い求める考えは嫌い。強い弱い、勝った負けたという言い方も嫌い。
  2. ただ、コンクールを通じて技量や音楽性の向上が図られたり、観客により良い音楽を聴いてもらえるいい機会になるから、コンクール自体は続けるべき

という考え方です。作中で「ダメ金」と呼ばれているものを、敢えて自分の現役当時宮城での通称だった「カラ金」と呼び続けているのも、1の考えが影響しています。
2については、自分も高1のアンコンの時、諸事情によって地獄のような練習の日々を送りましたが(今でもトラウマ)、そのお陰で使える音域がかなり広がって、音の響きも改善されて、その辺りから、元々編成の都合で担当にさせられた、希望楽器じゃなかったチューバが好きになっていったという出来事がありました。
団体で音楽をする場合、音楽の方向性を統一させるのは至難の技で、コンクールがある事によって意思統一が図りやすいというメリットもあります。滝先生が赴任当初にやった事がまさにこれです。コンクールを通じて、生徒たちに「努力して音楽の完成度を高める楽しさ」「その音楽を観客に聴いてもらう喜び」を伝えた訳です。
つまり、コンクールは「目的」ではなく「手段」であるという考え方です。
先日、コンクールの西関東大会で審査員を務められた上野耕平氏が、コンクールを終えての所感を述べられていました。

https://twitter.com/i/moments/1125019031365246976

特に8~15に関しては、今すぐ北宇治の部員に伝えたくなるような内容です。それを差し引いても、個人的に非常に強く共鳴したので、読んで下さった皆さんにご紹介しつつ、この考えを踏まえて感想を書きます。








  • 関西止まりだった事で改めて浮き彫りになる、各人物や北宇治吹部のコンクールへの姿勢
先述の通り、原作1・2巻(アニメ1期と2期前半)で既にコンクールの云々の話は随所に出ていました。原作3巻以降は、この命題に関するシーンがぐっと減ります。そのまま今年の関西大会までずーっと話が進みます。
で、後編の後半、関西大会止まりが決まった事で、今まで鳴りを潜めていたこの根源的な命題がググッと再浮上したように感じました。誤解を恐れずに言うと、特に植物園での依頼演奏前のミーティングの場面、優子先輩や久美子の言葉に少しモヤッとしてしまいました。
恐らく、全国大会を目標にしている強豪校が支部大会止まりになった時の空気感はあれがリアルなんでしょうし、北宇治の部員の悔しがる気持ちも痛いほど良く分かるんです。特に大会が終わった直後は。1年生の中には、ある意味コンクールの結果を求めて北宇治に来た部員も居るでしょう。「自分たちにとって良い演奏が出来て、観客にそれが伝わったんなら、結果がどうあれ素晴らしい事だ」と言われてもそう簡単に割り切れないのが、本気でコンクールに挑んだが故の真っ当で切実な感情なのは間違いありません。それでも、自分の中でどうしてもコンクールの結果に比重を置きすぎる考え方に拒否反応があって・・・。そんなモヤモヤも、加部先輩の一言で自分の中でスッと晴れた訳ですが。
冷静に考えれば、部活の年間目標が「全国金賞」に設定されてる事が、そもそも自分の「コンクール観」と違うんだという事に、この時初めて気が付きました。この目標だと、全ての演奏機会がコンクールで全国大会に出て金賞を取る事へ向けてのただのステップになってしまうんじゃないかと思ったんです。コンクール・アンコン・定演・文化祭・依頼演奏・学校行事・他校との合同演奏等々、本来それぞれの演奏機会に貴賤は無いはず。コンクールが最重要だとしても、「全国金賞」は、あくまで「数ある演奏機会の中の、コンクールにおける目標」なんじゃないかと思うのです。
ではなぜ今までそんな違和感を感じずに読めたかと言うと
「滝先生が赴任してきた段階で、堕落し切った部の空気を一新する為に、元々言葉だけの存在だった『全国出場』のスローガンをもう一度ぶち上げ直す必要があった」
「実際に全国大会出場の目標が達成された」
「全国大会終了後の各人物が、コンクール以外の演奏が次回のコンクールの結果と紐付けされる旨の発言をしてない」
この3つの要因で、自分はこの事に今まで違和感を覚える事なく読み進めてたんだなと再確認した次第です。
それが、今年関西止まりだった事による優子部長の随所での発言が、改めて各人物のコンクール観を再確認する良い切っ掛けになりました。
では、各人物毎にコンクールに対してどういう考え方を持っているか考えてみたいと思います。








  • 優子部長のコンクールの結果を求める考えは、中3と高1の経験からくるもの?
優子部長のコンクールへの考え方は、結果をかなり重視しています。「中程度のコンクール至上主義」くらいかもしれないです。
思い返せば、原作2巻の合宿で夜中久美子と話すシーンがありますが、その時にコンクールについての考え方を、優子先輩はハッキリ述べています。
「音楽の評価なんて、結構理解できひんことも多いやん。割り切れへんとか納得できひんとか、そう思うのはしゃあないやろ」
「でも、結局さ、いい結果のときは好きやし、悪い結果の時は嫌いや。一生懸命やって結果がついてこうへんのって、やっぱキツいわけよ」
「たぶん、努力の方向が間違ってたら、コンクールってあかんねん。この曲を自由曲に選んだ時点でそもそも無理とか、平気で評価シートに書かれるわけ。こっちだって演奏会とコンクールって別もんってことはわかってるし、コンクール向きの演奏をせなあかんって事も分かってる」
「ほんまはさ、わかってんねん。コンクールはあくまで演奏の場のひとつでしかないし、そうやって金とか銀とかの結果に固執する必要はないって。でも、結果が出たら気になるやんか。やっぱ金がいいって思うやん」
「まぁでも実力的な面で考えれば、癪やけど高坂がソロを吹くのはしゃあないと思ってるよ」
「本気で全国行こうと思うんやったら、上手い人間が吹くべきや」
(一部抜粋)
原作2巻の段階で、優子先輩はコンクールの結果にかなり重きを置いている事が描かれています。香織先輩をソロに推したのは、それが香織先輩だったからに他ならず、それを抜きにして全国目指すなら麗奈が吹くべきだと言っています。
ただし、関西大会の表彰式後は少し違う考えを述べています。うなだれる部員を前に
「何落ち込んでんの?私らは今日、最高の演奏をした。それは事実やろ?」
「確かに私らは全国に行けへんかった。でも、演奏は間違いなくほんまもんやった。覚えてるやろ?観客のあの反応!」
「これまでの時間は、今日という日のためにあった。そして、私らはちゃんとそこで力を発揮することができた。反省は確かに大事なことやけど、落ち込む必要なんてこれっぽっちもない。私らはあの瞬間、間違いなく最高の演奏をした。そうやろう?」
と演説し、部員たちの心に再び火を灯します。このセリフは、先述の原作2巻での考えと少し差異がありますよね。結果は出なかったけど、最高の演奏は出来たんだから胸を張ろうと言っています。これは、優子部長が結果を受け止めきれない自分自身に言い聞かせつつ、部員のメンタルを立て直す為に言ったものなのかなと思っています。
で、その直後に優子部長の本心がチラッと現れます。
「たったいま、今日という日は来年のコンクールに向けての一日目。明日からの練習は、切り替えてやっていきましょう!」
(一部抜粋)
つまり、これからの練習・演奏は、来年のコンクールで全国大会に行くためのプロセスだと言っている訳です。
この時はコンクールが終わった直後なので、優子部長はじめ、部員たちの悔しさ・悲しさはピークだったでしょう。そんな時の優子部長のこの発言は、多くの部員の心を救います。
さらに、植物園での依頼演奏に向けてのミーティング終了直前、優子部長は部員に自分の考えを部員に伝えます。
「正直に言う。うちは、今年の北宇治の演奏は去年より良かったと思ってる。審査員からのコメントも好意的なものが多かった。去年は滝先生が来て一年もたってへんかったけど、今年は二年目やん。去年に比べて、そのアドバンテージがある。上手い新入生もいっぱい入ってくれた。やけど、負けた。うちらが弱くなったんじゃない。ほかが、強かった」
「うちは、龍聖が育つのにももっと時間がかかると思ってた」
「だから龍聖は問題ないと思ってた。見込みが甘かった。多分、無意識のうちにコンクールを舐めてた。去年はいけたから、それを上回る今年のうちらなら大丈夫やって、勝手に思い込んでたんやと思う」
「今年のうちらに足りひんかったもんは、全国への貪欲さ」
「気が緩んでた。そしてそれは、うち自身の判断ミスでもある。ぶつかり合うことより、まとまることを最優先にした。滝先生の判断より、個人の状態を優先したこともある。潰れそうな子は真っ先にフォローしたつもりやった。でも、もしかしたらそれは、勝手にフォローしたつもりになってただけの、自己満足やったんかもしれん」
「この瞬間から、北宇治は来年のコンクールに向けて動いていく」
「いまからの練習が、来年のコンクールの結果に直結する。来年のコンクールで泣くのか笑うのかを決めるのは、ここにいる今の自分です」
(一部抜粋)
全国行きを逃して虚無に沈んだ部員の心を揺さぶったこの演説で、優子部長のコンクールへの考え方、結果の受け止め方を、詳細に発表してくれてます。コンクールからしばらく経ってからのこの発言なので、恐らくこれが優子部長の偽らざる本心なのでしょう。
ポイントは3つ。
まず1つめは「去年より良い演奏が出来た自覚があって、審査員からのコメントも良かったけど、関西止まりだったから、自分達のやってきた事に間違いだった点があった」という思い。コンクールの結果が伴わなければプラスに受け止められないという優子先輩の本音が見えます。
もし関西大会直後の発言が本音なら「自分達なりに良い演奏が出来て、審査員からのコメントも良くて、観客の反応もとても良かったから、結果は伴わなかったけど自分達のやってきた事に間違いはなかった」となるはずです。実際、優子部長も「去年より良い演奏が出来たと思う」と言っていますし、関西大会では部員たちは自分達で納得のいく演奏ができたという描写があります。
2つめは「部員同士の調和を優先した結果、慢心が生まれて、それが原因で全国行きを逃した」という分析。後編の序盤から麗奈が気にしていた事でした。府大会の前にも「府大会は余裕だろう」という部員の話し声に久美子が眉をひそめる場面もあるので、実際ある程度の慢心があったのは事実でしょう。でも、兎角揉め事の多い吹奏楽部において、表立った不和が無かったというのは優子部長の手腕が見事だったと言えると思います。これも、揉め事が起こらなかった事、起こらないように頑張った事を、一般的に考えればプラスに捉えられるはずが、全国行きを逃した原因でありミスだったと優子部長は考えている訳です。
3つめは「全ての練習・演奏機会は、コンクールで結果を残す為のステップである」という考え方。先述の"コンクール以外の演奏が次回のコンクールの結果と紐付けされる旨の発言”というやつです。去年の全国大会後の晴香部長とあすか先輩の演説と比較すると分かりやすいです。この2人は、コンクール以外の演奏をコンクールと関連付けて話す場面がありません。晴香部長と優子部長の考え方の違いも、ここで見えてきます。この3つの点が、自分の中での「コンクール観」と相反するものだと感じました。
特に、アンコン参加の発表。来年、全国で金を取るには個人技量の底上げが必要で、その手段としてアンコンに参加するという話の展開でした。北宇治がアンコンに参加する事自体はとても嬉しかったんですが、この話の流れだと、アンコンがコンクールに向けてのステップみたいだなぁと。個人的にアンサンブル曲好きというのもありますが、アンコンの位置がちょっと低いような…。コンクールが最重要なのは全く当然としても、アンコンがその踏み台になるのは悲しいなと思ってしまいました。考えすぎでしょうか。
ではなぜ優子部長は、コンクールの結果に重きを置いているのか。これには2つの原因が考えられます。
1つは中3の時。全国大会を目指して必死に練習に励んだ結果、府大会で銀賞だったという過去があります。優子部長にとってもこの経験はトラウマに近いものがあるようです。また、高2の時に、同じく必死に練習を重ねた結果、念願叶って全国進出した事と相まって、コンクールの結果に強く重きを置く考えに達したんじゃないかなと。
もう1つは高1の時。原作では直接の描写は無いんですが、アニメでは1期7話で夏紀先輩が「2こ上のやる気無い先輩たちは『コンクールみたいにはっきりしない評価に振り回されるのは本来の音楽の楽しさとは違う』という建前の元に練習をサボってた」と証言しています。コンクールに懐疑的な考えを、練習をサボる口実に使ってた訳です。原作でも似たような事は言われてたんじゃないかと思います。こんなのを目の前で見せつけられて、結果中学時代からの部活仲間はどんどん退部し、尊敬して已まない同パートの先輩はA編成に入れない。優子先輩から直接の言及はありませんが、これが原因で「コンクール懐疑主義」に懐疑的になったのかもしれない。
この2つの経験を経た結果、「中程度のコンクール至上主義」的な考えを持つに至ったんじゃないかと思います。南中は関西常連校だったので、コンクールの結果を求める空気があったのかもしれないので、その影響もあるでしょう。優子先輩は、この後体育館でのリハ中に聞いた加部先輩の発言を、どのように受け止めたのでしょうか。








  • 加部先輩は梨香子先生時代の感覚を残してるからこそ、体育館でのリハーサル時の演説に繋がる
加部先輩は、体育館でもリハ時に部員達にぶつけた称賛が全てでしょう。
「関西大会の日、うち、なんて言っていいかわかんなかった。バスのなかで泣いてた子もおった。だから、ほんまに思ってたことが言えへんかった。うちさ・・・うち、ずっと、」
「――みんなのこと、めっちゃすごいと思ってた!関西大会の演奏だって、めっちゃよかった。最高やった。関西金賞、それだけでめっちゃすごいやん。おめでとうって、ほんまはめっちゃ言いたかった」
「さっきのリハ、八十八人での自由曲、すごかった」
「うちは、この北宇治のマネージャーでよかった。みんなの演奏を支えられた。そのことを、うちは心から誇りに思ってる」
「関西大会で金賞なんて充分すぎるほど凄い結果じゃないか」という、非常に素直な感想を部員達に伝えます。冷静に考えれば全くその通りで、県単位ですら、支部大会で金賞を取った回数が数えるほどしかない県も少なくないです。我が地元新潟も、高校A編成では埼玉の厚い壁に阻まれ、1978年の三条商業を最後に全国大会への出場は無く、支部大会金賞すら2000年代に新潟商業が数回取ったのみ。
滝先生が赴任し、晴香部長の代で全国大会進出を果たした事で、「全国金賞」が現実味のある目標となりました。それがゆえに、関西金賞というハイレベルな結果でさえも「目標に遠く及ばないもの」に見えてしまっていた訳です。それはそれで全く悪い事ではないですが、「いやいや、充分凄いよ!」と、マネージャーとして部を支えてくれた人物が、ある意味冷静な目を通して伝えてくれた訳です。
そして何より「私は皆さんの演奏に感動した」と部員に直接伝えた事が重要だったと思います。全国大会金賞という目標に届かなかったがゆえに、自分達の演奏が観客を感動させる事ができたかどうかの部分が、部員達には感じ取りにくくなっていた中で、いつもすぐ近くで何度も演奏を聞いていた彼女が「関西大会の演奏は凄く良かった」と伝えた訳です。実際、観客は演奏に感動しても、奏者にそれを伝える術は基本的には拍手や歓声のみです。関西大会の時にも、観客からはそれらが送られているのですが、支部大会まで進む学校なら下手な学校は基本的に無いですし、北宇治の部員には、拍手や歓声は「全国行きを逃した」という事実に覆いかぶさってしまっていたように思います(優子部長は関西大会直後にそれを取り払おうとはしましたが)。加部先輩は、部員達に演奏の賞賛を伝えられる貴重な立場にあって、それをちゃんと伝えてくれました。この「演奏を直接褒められる」というのは、奏者にとってこの上ない感激です。あるいは、加部先輩のこの言葉で、関西大会止まりだった失望から完全に立ち直った部員も居たと思います。そのくらい、演奏を褒められる喜びはひとしおなんです。完成度を上げる為に努力に努力を重ねた演奏ならばなおさら。
この感覚は、梨香子先生時代の北宇治高校で吹奏楽を始めた事が影響してるのかなと思います。
加部先輩は高校から吹奏楽を始めています。その時の顧問だった梨香子先生は「結果なんていいから、楽しく演奏しましょう」というスタンスで(その考え自体も間違いではないのですが)、加部先輩にとって、初めて本格的に触れる音楽観がそれだった訳です。優子先輩もそうですが、初めて入った吹奏楽部(中学からなら中学、高校からなら高校)の音楽観が、その人のその後の音楽観に影響を及ぼす事が多いです。自分もそうです。
そんな音楽観の元に育った部員が、2年生の時に滝先生を迎え「努力して音楽の完成度を高める楽しさ」を覚えますが、高校から始めた部員は根底には梨香子先生時代の感覚が残っているんだと思います。そもそも1年生の時は府大会で銅賞だったのを考えれば、関西金賞ですら夢物語だったはずで、「関西金賞なんて凄いじゃないか!おめでとう!」と思う気持ちはもっともです。なにより、梨香子先生時代には決して経験できなかった「努力を重ねて完成度を出来る限り高めた演奏を、大勢の観客に聴いてもらう素晴らしさ」を、北宇治の部員たちは体感したじゃないかと再確認したと思います。
先述の上野耕平氏のツイートの9・10・11は、まさにこの加部先輩のセリフとリンクしますね。
加部先輩のこのセリフは、彼女が梨香子先生時代の感覚を残しているからこそ、「関西大会金賞おめでとう!」「関西大会の演奏は素晴らしかった!」と純度100%の感情で放たれ、純度100%であるからこそ、部員たちの心を揺さぶったのだと思います。特に、その時期を一緒に経験している3年生部員が感情を揺さぶられない訳が無い。持病により奏者を辞めざるをえなかったという事情と併せて、優子部長が嗚咽しながら号泣するのも無理はないです。
「全国大会金賞という結果が出なかった」と考えるか、「関西大会金賞という結果が伴った」と考えるか。優子部長と加部先輩の考えの差は、2人の今まで培ってきた音楽観の差なのだと思います。


【補足】
最近ツイッターでコンクールや吹奏楽に関する色んな方のツイートを拝見する中で、加部先輩の体育館でのリハ時のセリフにどうしても補足をしたくなったんで数行だけ。
つまり、この加部先輩の部員達への感想は、関西止まりだった事で「自分たちの努力は報われなかったんだ」「今までやってきた事は間違いだったんだ」「コンクールでの演奏はダメだったんだ」みたいな発想に陥ってた部員(少なくとも優子部長と久美子)に対して、「コンクールの結果が目標に届かなかったからって、それまでの努力やコンクールでの演奏が否定されるものじゃないでしょ!?」という、ある意味部員だけでなく読者にも向けて放たれたセリフなのかなと思いました。優子先輩のコンクールに対する反省の弁の後に、この加部先輩の場面を入れる事で、「音楽は競技じゃないんだから、結果が伴わなかったからって理由で自分たちが納得できた演奏を否定しないで」というメッセージが効果的に伝わってきます。恐らく久美子や麗奈には届いていないとは思いますが…。














書きたい事が溢れ返ってきてしまって、短くまとめきれなくなってしまったので、一度ここで区切ることにします。最初は2分割のつもりだったんだけどなぁ・・・。
それでは、その3に続きます。その3では、滝先生や麗奈や、忘れちゃいけない久美子等、優子部長・加部先輩以外の各人物の「コンクールの捉え方」を自分なりに考えていきます。
これも時間かかりそうだ・・・。