【ネタバレ注意】「響け!ユーフォニアム 第二楽章 後編」の感想など その3

10/5に刊行された小説版の新刊
響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 後編」
を読んで気付いた事などを書き綴った記事、
まさかのその3です。気付けば、刊行から1ヶ月も経ってしまいました・・・。
その2の完全な続きですので、そちらを先にお読み頂けるとありがたいです。













当然、以下ネタバレ注意です!











  • 夏紀先輩も、高校から始めたからこそのコンクールを頑張る動機と、副部長の適任性
夏紀先輩は、1巻のマクドナルドに久美子を呼び出したシーンではコンクールにあまり執着がない事を表明しています。
「正直、コンクールとかどうでもいいねんなあ。AでもBでも」
「なんかめんどいやん?そういうの。周りがやってるからいちおうやってるけど」
この時点では、顧問が変わって急にやる気を出した部員達に付いていけないと言っています。ただその直前には
「べつにコンクールは今年で終わりってわけちゃうねんから、来年頑張ってAで出ればええやんか」
とも言っているので、もしかしたら、ほんの少しはオーディションで久美子に負けた事を負い目に感じてるのかもしれません。
夏紀先輩はこのセリフ以外では基本的に部活に対してドライな姿勢を示し続けます。
大きな転機になったのは、あすか先輩の退部騒動で自分が代役で全国大会に出るかもしれなくなった事。あれは相当な重圧だったはずで、必死に練習をした事を伺わせる描写があります。
この時は「コンクールに自分が出てるかもしれない」みたいな希望を抱く余裕は無かったと思います。久美子に「自分に代役が務まる訳が無い」と不安を吐露したのも、久美子が夏紀先輩の練習が無駄になってしまう事を案じた言葉を遮ってでも「いいから、あすか先輩を連れ戻して」とお願いしたのも、彼女の本心だったと思います。
その後の立華との合同演奏会の練習では、あすか先輩に稽古を付けて貰ったりしているので、この辺りでは既に「最後のコンクールはAで出るんだ」という決意があったんだと思います。第二楽章前編では、B編成のメンバーで「来年はAで出ようと約束した」と言っていましたね。
ただ、1巻のマクドナルドの場面以降は、コンクールに対しての所感を述べる場面がありません。原作の夏紀先輩はアニメ以上にサバサバな性格で描かれています。
そんな副部長が、第二楽章後編の関西大会直前の舞台袖で久美子と奏に気持ちを伝えます。
「去年、うちはここにおらんかった」
「だけど、今年はここにいる。そのことが、びっくりするほどうれしい」
「うちはこの三人のなかでいちばん下手くそで、去年のあすか先輩みたいには全然なれへんかった」
「正直、あすか先輩みたいになれたらって何度も思った。でも、途中で開き直った。そもそもうちがあすか先輩と同じことをやろうってのがおこがましいし、それに…それに、アンタら二人がいてくれたから」
「うちは、ほんまにラッキーな人間やと思う。こんなしょうもないやつについてきてくれる後輩がおることなんて、これから先、二度とないかもしれへん。これが最後のコンクールになっても、正直後悔はない。でも、できることならあともう少しだけ、うちは二人と吹いていたい。一緒の楽器で、一緒のステージで、北宇治として演奏したい。だから、絶対行こう。―――全国へ」
(一部抜粋)
作品中では「あすか先輩になろうとしてなれない自分に葛藤を抱く」みたいな描写は無いんですが、本人の中ではかなりの苦悩があったのだと、この時点で初めて明かされます。北宇治の場合、副部長の役割もかなり重要なので、その重圧もあったのかもしれません。なにせ予備校やめて塾通いに切り替えてるくらいなので、進路を変えてまで部活をやるという意気込みがあったんでしょう。
そんな中で、コンクールを頑張る動機がここに来て語られます。すなわち「少しでも長くこのメンバーで演奏したい・部活をしたいから」という理由です。
実際、この動機でコンクールを頑張る人は多いと思います。北宇治は関西大会後の文化祭や植物園での依頼演奏で引退になってましたが、5月に定演をやる学校とかだと、コンクールが終わると引退というところも多いです(うちもそうでした)。その場合、コンクールで上位大会進出を逃すと即引退になります。なので、1日でも長く部活を続けるには、上位大会に進み続けなければならない。すなわち、全国大会に出場する事が最も長く部活を続ける方法という訳です。これは、コンクールを頑張る動機として普遍的で標準的なものじゃないかなと思っています。
総じて言えるのは、優子部長や麗奈のような「コンクールとは」「音楽とは」などに対する考えがあまりないという事です(少なくとも物語上では語られません)。そんな彼女がコンクールを頑張る理由として明確に述べたのが「このメンバーで少しでも長く音楽がしたい」というシンプルなものでした。もちろん、滝先生の指導を通じて、音楽の完成度を高める楽しさやそれを観客に聴いてもらう喜びを見出した事、副部長としての責任感、Aメンバーとして活動する事への充実感などもあるでしょうが、1番の理由はこれなんだと思います。
この考えは、加部先輩と同じく梨香子先生時代の北宇治から吹奏楽を始めた事が影響していると思います。梨香子先生時代には、初心者部員が音楽やコンクールに対して考えを深化させるような切っ掛け・雰囲気・演奏レベルが無かったのだろうと思われます。そもそも入部の動機が「人数多い割に練習が緩いから」だった夏紀先輩にとって、「コンクールとは」「音楽とは」というある種哲学的な問いに対して元々関心が薄いんだと思います。そんな夏紀先輩が「少しでも長く部活がしたいから」といって練習に励んでいる訳ですから、コンクールが存在する事のメリットがここで発揮されてる訳です。
そしてこの、「『コンクールとは』『音楽とは』に対する深追いした考えを持たない」「少しでも長く音楽やるためにコンクール頑張る」という2点は、副部長として優子先輩を支える上で非常に有効に働いたと思います。
"その2"で書いた通り、優子部長はコンクールの結果偏重の考えを持っています。仮に夏紀先輩がコンクールに懐疑的な考えを持っていたなら、コンクールの結果を重視する優子部長と意見が対立し、部活運営が円滑に進まずに混乱をきたしていたと思います。逆に、優子部長と同じくコンクールの結果偏重の考えだった場合、合宿時に体調不良を押して頑張ろうとしたり、色んな所で無理を押そうとしてしまう優子部長のストッパー役が務まらなかったと思います。合宿の時に夏紀先輩が優子部長を止められたのは、そういう理由なのかなと。さらに、「少しでも長く部活やりたいから」という標準的な理由でコンクールに向けて頑張る姿勢があったからこそ、部内全体で「コンクール頑張るぞ」の空気を遮る事無く関西大会まで駒を進めたんだろうと思います。
もしここまで考えてあすか先輩が夏紀先輩を副部長に推したのなら、あすか先輩の有能さに打ち震えます。あと、「急にやる気出した部活の雰囲気に付いていけない」とか言ってた夏紀先輩が、最終学年になった時にはこれだけコンクールに熱を上げているのは、なんだか微笑ましいですね。











  • 滝先生の「音楽の完成度を高めれば結果は付いてくる」という考えに、お父さんや奥さんの存在がチラチラと…
滝先生は、「完成度の高い音楽ならばコンクールの結果は付いてくる」という旨の発言が多いです。
実際の吹部で顧問をされている先生方は、コンクールの結果と音楽の良し悪しは別物であると考える方が多い印象があります。あの淀工のあの丸谷先生も「今まで生徒たちに『金賞獲れ』なんて一度も言ったことが無い」と仰っていました。対してこの考え方は、コンクールの結果を欲してるニュアンスが含まれているように感じます。対偶を取ると「結果が付いてこなければ、完成度の高い音楽とは言えない」になるからです。
原作1巻、府大会のリハ室では
「普段どおりの力を出せば、おのずと次の道へ進めます。練習以上の力を出そうと思ってはいけません。いつもどおりに演奏して、そして笑顔で帰りましょう」
と言っていて「いい演奏をすれば結果は付いてくる」という考えを端的に伝えています。
しかし、原作2巻の関西大会前には少し趣の異なる事を生徒に言っています。
「確かに、周りはどこも強豪校ばかりです」
「しかし、私たちがそれを気にする必要はないと思うんです。私たちは私たちの演奏をする。今日するべきことは、たったそれだけです。評価は気になると思いますが、それだけに固執する必要はどこにもありません。もしもこの大会でいい結果が残せなくても、それは皆さんの音楽が劣っているというわけではなくて、単にほかの学校のほうが審査員の評価が高かったというだけです。そしてもしもうまく勝ち進めることができたなら、そのときは自分たちの音楽をもっと大きな舞台で発表できるチャンスを得たと思いましょう。決して、ほかの学校より自分たちが優れているのだとおごったりしないように」
(一部抜粋)
この考えは"その2"で紹介した上野耕平氏の言葉に通ずる所がありますし、とても大事な考え方だなと思います。ただ、このセリフは本番前のものなので、関西大会止まりだった時の為の事前フォローという考え方も出来ます。実際、久美子はそのように捉えています。
では全国大会の時はどうか。原作3巻、会場に移動するバスの中では以下のように言っています。
「春に全国大会という目標を掲げ、私たちはここまでやってきました」
「そんななかでこうして結果を残せたのは、ひとえに皆さんの頑張りの成果だと思っています。いままでよくついてきてくれました」
「こんなにも大勢の人の前で演奏できる機会は、これから先なかなかないでしょう。結果を気にするな、とは言いません。ですが、ここまで来たら他人の評価を気にするよりも、悔いのない演奏をすることに全力を尽くしましょう。とくに三年生は、今日が正真正銘最後の本番です。私たちの演奏を、この晴れ舞台で見せつけてやりましょう」
(一部抜粋)
全国大会は最上位大会なので、泣いても笑っても最後の舞台なのだから最善の演奏をしようと言っています。この場合は「これが最後」というのが大きいと思います。
1年経って、優子部長の代ではどう言っているかというと、以下の通りです。
「課題曲・自由曲が決まって以降、皆さんは今日までずっと努力してきました。楽譜を配られたときと比べて、演奏の完成度もどんどんと高くなりました」
「私は、皆さんとならさらに高いクオリティーの音楽を作り上げられると考えています。次の演奏の機会につなげられるよう、全力を尽くしましょう」
ここでも、「次の演奏の機会」という言い回しで「いい演奏をすれば結果は付いてくる」という事を言っています。
そして今回の関西大会。直前のリハ室ではこのように言っています。
京都府大会に比べても、皆さんは格段に上手くなりました。結果がどうなろうとも、今日のいちばんの演奏者は皆さんであると私は信じています」
(一部抜粋)
去年同様「結果がどうなろうとも」という事を言いつつ、「皆さんが一番ですよ」といって部員を鼓舞します。普段の練習では厳しい滝先生が、本番直前でこういうセリフを言えるという所が、夏紀先輩の言うところの「乗せるのが上手」というやつだろうなと思います。
ただ、今回は去年のような「結果の優劣が音楽の優劣を意味しない」というセリフが一切出ません。関西大会後にそのようなセリフを言ってもただの慰めのようになってしまうし、優子部長の「全国には行けなかったけど、自分たちの力は発揮できた」というセリフを聞いて、それ以上は蛇足だという判断だったのかもしれません。それでも、顧問としてこれは言っておくべきだったんじゃないかなと思ってしまうんですが、そのセリフを出さなかったのはやはり滝先生の本意がそれではないという事と、関西止まりだった事が滝先生自身悔しかったのかなと思います。それとも、帰りのバスの中で言ったのでしょうか。
このように、言動の端々にコンクールの結果を求めている様子が滲み出ている滝先生ですが、それはやはり父親と奥さんの影響が多分にあるんだろうと思います。
奥さんは言わずもがなですね。「自分が母校の顧問になって全国大会金賞に導きたい」という遺志はあまりにも切実で、その遺志を継いでいる滝先生からは悲壮すら感じます。元々吹奏楽にそれほど思い入れが無いと言っていた(元々コーラス部と囲碁部の副顧問掛け持ちで、前の学校で吹奏楽部の副顧問をやったのも頼まれたからやったと言っています)滝先生が、これだけコンクールに熱を入れるというのも気持ちは分かりますよね。
もう一つお父さんの存在も大きいと思います。滝先生のお父さんが北宇治の顧問だった頃は全国大会の常連で、1度だけですが金賞も取ってたという記述があります。去年の関西大会前には「関西大会出場は10年ぶりだけど、部員がその過去を気にする必要はない」と言ったりしていますが、滝先生的には、直接の言及は無いにせよどこかで意識してるのかなと思います。
ただ、じゃあ音楽性よりもコンクールの結果を重要視してたのかというとそんな事はないと思います。むしろ滝先生の中で「目指したい音楽像」が明確にあって、それを達成する事でコンクールの結果が伴うと考えているようです。この考えは、自分の音楽観に絶対の自信が無いとなかなか持つことが出来ない発想です。
そもそも、滝先生が教師になったのは「ボーン奏者として食べて行けそうになかったから」と言っているので、基本スタンスが教師よりも音楽家寄りなのかなと思います。奏にも「人間相手が不得手」なんて言われていました。
滝先生の中でも、コンクールの結果を求めている自分が居る事や、自分が目指したい音楽観に基づいて指導をしているという意識があるんだろうと思います。だから、去年の全国大会後に
「自分が一人よがりな指導をしているのではないかと不安に思っていたんです。もしかすると、自分は生徒たちに自分のやりたいことを押しつけているだけなのではないかと―――」
と言ったんだと思います。麗奈は即座にこのセリフを否定しましたが、滝先生の中にも「コンクールとは」「良い音楽とは」みたいな葛藤があったんだなと思える場面でした。確かに、滝先生は自身の「目指したい音楽」に部員を向かわせて行ってるのは確かだと思います。しかし"その2"でも述べた通り、滝先生はコンクールを通じて、生徒たちに「努力して音楽の完成度を高める楽しさ」「その音楽を観客に聴いてもらう喜び」を伝えた訳で、それも確かな音楽論理と音感に裏打ちされた指導が行われているので、決して「一人よがりな指導」ではかったと思います。部員達は間違いなく掛け替えのない色々なものを得たはずです。"その2"でも言いましたが、そういう意味で滝先生はコンクールを非常に上手く活用しているなという印象です。逆に言えば、梨香子先生はコンクールの結果を求めない音楽観を重視し過ぎたがゆえに、コンクールを活用できずに優子部長の代の大量退部騒動に発展してしまったんだと思います。コンクール懐疑主義も、それはそれで一つの考え方なんですが、その考えを持ちつつもコンクールを上手く活用して部活を円滑に運営する事は出来たはずです。正直、学校の吹奏楽部においては、コンクールの存在無しに部内の音楽に対する考えをまとめるのはかなり難しいです。なので、コンクール懐疑主義を持ちつつ「コンクールの結果ばかりを追い求めるのは違うと思うけど、でも出るからには頑張ろう」という方向に持っていけなかったのかなと思うと残念です。梨香子先生も案外音楽に対して愚直なのかもしれません。
関西カラ金が決まって以降、滝先生はコンクールについて発言をしていませんが、この結果をどのように捉えているのか、個人的に凄く気になっています。久美子が部長になった事で、何かの時に語られる場面があるでしょうか。









  • 橋本先生の考えが、登場人物の中で最も上野氏の所感に近い
橋本先生はコンクールで良い賞を取る事に偏重した考えに否定的です。登場人物の中で、"その2"で紹介した上野耕平氏の所感に最も近い考えを持っていると思います。
橋本先生は教師ではなくプロ奏者なので、実在のプロ奏者である上野氏の所感に通ずる考えを述べているという事は、武田先生が作中で描くプロ奏者が実在のプロ奏者に通じる描き方をされているという事です。これは武田先生の作家としての力量を示すものだと思います。
橋本先生は3巻では以下のように述べています。
「ボク、じつはコンクールってあんま好きやないねんな。正直な話、一生懸命やってんなら金とか銀とかなんでもええやーんって思ってる」
「他人の評価は当然大事やで?そんなもん、音楽なんて聞かせてなんぼやねんから、自己満足な演奏ってのはもちろんあかん。けど、評価を気にしてがんじがらめになる必要はないとボクは思うねんなあ。だいたいさ、音に楽しむって書いて音楽って読むわけやんか。やっぱ吹くやつも楽しまんとあかんと思うのよ」
(一部抜粋)
また、第二楽章後編の合宿では以下のように述べています。
「いやぁ、ほんまによくなったんちゃう?とくに自由曲の第三楽章、コンクールとか関係なしに評価してほしいって思うぐらいよかった」
「コンクールの評価の仕方って、やっぱり演奏会とは違うやん?きちっと評価ポイントを押さえていくのはもちろん大事な事やし、滝クンはちゃんと細かいところまで気にしてくれてる。でもボクはね、正直言うと、そんな結果とか評価ばっかりにこだわってほしくない。結果がどうなろうと、自分たちがやりたいって音楽を貫いてほしい。ステージに上がった君たちは、もう立派な演奏者であり表現者。まずは自分が音楽を楽しんで、それからお客さんにも楽しんでもらう。そのことを、肝に銘じておいて」
まさに、上野氏の仰ってる事と通じますよね。「自分のやりたい音楽」がまずあって、それを目指す目標点としてコンクールがあるべきという考え方です。橋本先生はさらに「コンクールで評価される音楽」についても言及しています。プロの目から見ても「良い音楽」と「コンクールで評価される音楽」に差異があると感じている点がリアルだなと思いました。
橋本先生が有能なのは、「コンクールで結果ばかり求めるのは好きじゃない」といいつつ、コンクール自体を蔑ろにしない姿勢をしっかり見せている所です。プロとしてコンクールに向けての指導を頼まれてる訳なので当然と言えば当然ですが、この「コンクール偏重に釘を刺しつつ、コンクールを蔑ろにした言動をしない」という姿勢が、部員のコンクールに向けての士気を上げつつ、コンクールの結果を求めるあまりかかってしまう重圧を軽減させていると思います。橋本先生は北宇治のOBなので「母校に全国で金賞獲って欲しい」という気持ちも少なからずあるはずで、そんな中でこういうスタンスで指導できるという点において、橋本先生は音楽指導員としてかなり優秀なんだと思います。








迷ったけど、ここでまたしても区切ります。という事で、まさかの"その4"に突入です。最初は"その2"までの予定だったのになぁ・・・。
"その4"では、麗奈・サファイア川島・そして忘れちゃいけない我らが主人公黄前久美子さんのコンクール観を考察してみようと思います。今度こそ"その4"で最後にできるはず…。気長にお待ち頂ければと思います。